全長200メートル、重さ43トン。 復活したのは、1971年(昭和46年)。元々日にちは定まっていなかったが、復活を機に10月10日と決まった。体育の日の祝日。そして那覇市民にとっては、決して忘れられない日でもあった。 1944年(昭和19年)10月10日。その日の朝、中原俊明さんはトイレの窓の向こうに、異変を見た。遠くの空に黒い煙がもくもくと上がっていた。そして、蚊のような大群がこちらに向かって飛んで来る。それは航空機だった。機銃掃射!「何が起きているのかわからないが、とにかく防空壕へ入れ」と父は言う。近所の人たちは、「これは演習ですか?」と聞いていた。 それは本物の空襲だった。早朝から夕方まで、5回にわたる波状攻撃。延べ1400機の米軍艦載機が、合計541トンの爆弾を落とした。「10・10空襲」と呼ばれることになる爆撃・・・。 首里の高台から那覇市街を見下ろした人は、「船や飛行場、倉庫などが爆発、その煙が天まで届いて怪物のように見えた。それが落ちてくるのではないか」と恐怖した。那覇市の9割が焼失。日本への空襲で初めて焼夷弾が使われ、病院や学校など、民間施設も爆撃を受けた無差別攻撃だった。 県の輸送課職員だった山里和枝さんは、空襲を知って県庁に向かう。グラマンの機銃掃射を受けながら民家の軒下を走り抜けた。県庁にたどり着くと混乱状態だった。監視哨から次々と爆撃情報などが入って、電話は鳴りっぱなし。それを受け続けた。近くに爆撃を受け、庁舎が揺れる。上司である荒井退造警察部長は言った。「動くな、頑張れ」。 県都、那覇が一日にして灰儘に帰した10・10空襲を、当時の大本営はひた隠しにした。沖縄守備軍・第32軍は、その時、驚くべき失態を演じていた。そして沖縄は、熾烈な地上戦へと追いやられていくことになる。 その後の沖縄戦があまりにも凄惨だったため、10・10空襲の印象は、沖縄でも決して強くない。加えて2000年、10月10日は祝日ではなくなった。体育の日は第二月曜日、那覇大綱挽は、その連休中に行われることになった。10・10空襲を記憶にとどめて、10月10日に平和の綱を挽く‥その心は次第に薄れていくようにも見える。 一方で、あの空襲を決して忘れまい、後世に伝えていこうとする取り組みがある。空襲映像の上映会、写真展、学生の活動、家族・親戚の中での語り合い…。64年めの、その日を追った。
取材:TBS報道局
原 義和(沖縄在住ジャーナリスト) 協力:RBC琉球放送 |
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