作品情報WORK

みずからの芸術を一種の経済活動とも考えていたにちがいないクラーナハにとって、描いたイメージを不特定多数の人々のもとへ散布することのできる版画という複製媒体は、板やカンヴァスを支持体とする絵画に負けず劣らず重要なものであった。16世紀初頭のドイツにおいて版画は、概して絵画よりも実験的な表現をおこないやすい新メディアだったのである。それは画家たちにマス・プロダクションを許す技術であったと同時に、特定の注文主の趣味や意向には必ずしも拘束されない自発的なクリエーションを可能にしたのである。
事実、クラーナハにとって版画は、彼の絵画作品にも見られる屈曲した「線」の運動——うねり、もつれ、特異なリズムを生みだすグラフィズムを、誰にも制限されることなく展開することのできるフィールドだった。しかもこの画家は、そのような自身の線の芸術を、もっぱら白黒(モノクローム)の世界にとどめはしなかった。つまり、クラーナハこそ、西洋版画史の中核をなすドイツにおいて、多色刷り木版を最初に試みた人物にほかならないのである。その多色刷り版画では、複雑にうごめく黒い線が、重くも鮮やかな色彩と小さな画面のなかで絡みあい、まったく新たな視覚世界を織りなしている。こうしたクラーナハによる多色刷りの先駆的実験は、後続する画家たちに、きわめて大きな表現の可能性を開示するものだった。

《 聖アントニウスの誘惑 》

1506年、木版、40.7 x 27.8 cm、国立西洋美術館

《 聖クリストフォロス 》

1509年頃、キアロスクーロ木版(第2ステート)、28.2 x 19.8cm、アムステルダム 国立美術館

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