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TBS賞からザ・ガードマンへ2015.11.17

ボタン写真 《美しきよしみ》
放送局と作曲家のよしみから記す。昭和36年(1961年)初頭。TBSと山内正に運命の出逢いがあった。麗しき機宜(きぎ)だった。その両者の関係は、後に大きな放送文化の果実を生むことになる。仮令(たとい)それがアダムとイブの禁断の実であったとしても。
当初の機縁。青年作曲家は、旭日の放送局から栄誉を受けた。詳細は、後述する。永き雌伏から輝く雄飛へ。少年期よりの営々たる精励は、報われた。鬱勃(うつぼつ)たるパトスは肯定された。山内正は、音楽家としてついに覚醒した。大いに芸術の驥足(きそく)を展(の)ばした。

《エンドロールの名前》
4年後、昭和40年(1965年)、TBSと山内正は、放送の歴史をある意味塗り替えることになる。ドラマ「ザ・ガードマン」である。ドラマは、警備の男たちの活躍を切り口に人間の欲望を描いた。色と金である。山内正は、そのテーマや劇中音楽を作曲した。ドラマは、よくも悪くも問題作であった。どす黒い欲望。悪徳の都会。卑俗を正面から掬(すく)う。それは、製作者たちの確信に基くものだった。テレビは、所詮聖なるものではない。日本は、欲望を肯定し昭和の金色夜叉を生きていく。そんな時代の空気を山内は、作曲した。エレキのスライドギターが爪弾き擦り上げる。スネアドラムが乾いたリズムを刻む。哀歓あふれる旋律。胴慾の湖に漣(さざなみ)を立てる。テーマ音楽の傑作だった。
こんな音楽に導かれたドラマは、全国の大人たちの密やかな愉しみとなった。金曜日夜9時半という深い時間帯。善男善女は、子供を寝かせこっそり観た。録画など無い時代である。息を凝らし情欲の虜となる。民間団体から「ワースト番組」のレッテルを貼られたが凄まじい人気であった。昭和42年、43年と年間平均視聴率が36%と群を抜いた。この二年前の「オバケのQ太郎」、前年昭和41年の「ウルトラマン」のそれをはるかに凌駕した。その内、女性視聴者が6割であった。それも興味深い。テレビは、大人の娯楽を発見した。案外明け透けな女性視聴者を知った。番組の仕舞いにも山内正の音楽が流れた。火照り、余燼燻る中、人々は、エンドロールの中に彼の名前を見た。大書された名前である。現代のテレビでは、有り得ない程の大文字(だいもんじ)である。こうして、作曲家山内正の音楽は、あの頃の日本人の集団記憶として耳底に残った。山内正の名前は、眼底深くに刻まれた。かたやTBSは、独走の黄金時代を迎える。それは、理想主義のメルヘンの時代から現実追随とデカダンスへの切り替えによって贖(あがな)われていくものだった。

《TBSの高度成長期》
さて、昭和36年、日本は、嵐の高度成長下にあった。TBSは、この時、10歳。開局以来、躍進に継ぐ躍進を遂げていた。既に高度成長を先取りしていた。創業は、昭和26年。有楽町駅前に東京で最初の民間放送局として発足した。三大新聞と電通が産婆した日本最大の放送局「ラジオ東京」である。それまでは、首都に放送局は、NHKしかなかった。ラジオ東京は、NHKと一線を画す反骨の報道番組や独創的なクイズ番組や、自由な発想の歌番組、本格的なクラシック音楽番組などで人々の心を掴んだ。瞬く間にNHKを上回る聴取者を獲得した。さらに昭和30年には、テレビ(ラジオ東京テレビ)を開局し、兼営した。業績の向上は、目覚しかった。開局年度の売り上げ9億円は、昭和35年には、7倍強の68億円へ。営業利益は、初年度の1億円から、10億円へと増大した。社員数は、1300人を超えた。昭和35年11月、社名のラジオ東京を東京放送と変えた。略称をTBSとした。この頃、東京証券取引所に株式を上場。社長は、10年を節目に財界の大物、ゴッドファーザー足立正から有能な番頭タイプの鹿倉吉次にバトンタッチされた。ラジオ、テレビのスタジオ群を一体に収めるモダンな新局舎を起工した。昭和36年、創立10年の際に華々しく竣工することになっていた。

《クライスラーの溜息》
昭和36年春、山内正は、33歳だった。卯(う)建(だつ)があがらなかった。売れない作曲家である。6歳上の長兄山内明家に寄宿していた。世田谷 羽根木の西洋館。とんがり屋根の灑落(しゃらく)なたたずまい。明は、戦中からの美男俳優であった。人気があった。昭和25年には、劇団民藝を創立し、斯界での実力も兼ね備えていた。次兄の久は、昭和32年の映画「幕末太陽傳」の脚本などで知られていた。寡黙な弟は、気持ちが拗(ねじ)けていた。音楽で身を立てると心に定めてから20年近くが経過している。青雲の志は、フリッツ・クライスラーだった。父山野一郎は、戦前、無声映画時代の活弁士だった。売れっ子だった。自宅にSPレコードが堆くあった。蓄音機は、少年の耳に夢の調べを奏で続けた。中でも、フリッツ・クライスラー(1875−1962)だった。この音楽家の名前は、ヴァイオリンの代名詞だった。ロマンスと甘やかさと抒情味が化体(かたい)した無上の何かであった。極上で純粋な甘味は、安っぽくも感傷的でもない。正少年にとって胸焦がれる真の芸術であった。父の薦めもあった。音楽の藝術家になろう。ヴァイオリンに尽瘁(じんすい)した。近寄り難く精励した。凄絶な猛練習だった。しかし、不運が待っていた。戦局傾き、勤労動員の日々。少年の成長期の指は、猛練習と工場労働の痛苦によって悲鳴を上げた。左手の指が動かない。抑えることすらできない。クライスラーの上品なヴィブラートの夢は、消滅した。どんな治療をしても治らなかった。時は、経ち、敗戦を過ぎ、カレンダーは次々に捲られた。あちこちで槌音が聞こえてきた。しかし、ヴィオロンは、ヴェルレーヌの詩の如く節ながき啜り泣きと溜息であり続けた。


《吹きまくれ、逆風(さかかぜ)よ》

ヴィオロンのもの憂きかなしみに
わがこころ傷つくる

かのヴェルレーヌは、そう書いた。秋の歌である。戦後しばらく、山内正は、ヴァイオリニストの夢を失ったままだった。傷ついたこころ。山内正は、10年近くを悶々と過ごしていた。昭和29年(1954年)秋、正の妹幸子が作曲家小杉太一郎(1927-1976)と結婚した。正と小杉太一郎は、共に27歳の同い年であった。小杉は、東京芸大の作曲科で伊福部昭門下にあった。大学4年の時に第21回の毎日音楽コンクールで作曲部門の一位に輝いた。華々しく楽壇にデビューした若き俊才であった。彼我の境遇があまりに異なった。小杉は、義兄となった正を当時、世田谷区尾山台にあった伊福部昭邸にしばしば連れて行った。妻となった幸子は、兄を案じていた。正月ともなると伊福部家には、門下生が集まった。音楽青年たちは、終夜(よもすがら)徳利を傾け、大いに語りあった。当時、中学生だった伊福部玲さん(伊福部昭長女)は、一晩中、燗をし続けた。山内正の印象をこう語る。
「おだやかで、もの静かで、ご自分の意見はいわず他の人の話を黙って聞いていた。」と。
無理も無い。己はなんの実績もない。小さくしている他は無かった。伊福部昭は、藝大教師を退職した後、「ゴジラ」を作曲し、生涯唯一の交響曲「シンフォニア・タプカーラ」を書き下ろした。初演を成功させ、土俗的な感性による日本音楽の巨匠として輝いていた。オーケストラでは、東京交響楽団が意欲的に日本人作曲家の新作を月一回のペースで取り上げていた。同楽団を専属としていたラジオ東京(当時、後のTBS)は、その新作をコンサート・ホールというシンフォニー番組で毎月の第二日曜日に放送していた。「三人の会」や「山羊の会」など多様な音楽集団の動きが活発だった。昭和32年(1957年)、武満徹は、東京交響楽団の委嘱で「弦楽のためのレクイエム」を世に問うた。ほどなくストラヴィンスキーをはじめ世界を驚愕させることになる。日本のクラシック音楽界は、蠢動していた。脈動弾けんばかりであった。そんな時代が山内正を痛烈に刺激した。義弟を介し、伊福部昭の薫陶を受けた。思量すれば、クライスラーも後年、作曲家であった。彼には、音楽そのものを放擲した時代すらあった。医学と美術に進み、軍籍に入った数年があった。しかし、その廻り道の時間が後にクライスラーの温かみと円熟の音楽に作用した。そう謂う事もできるのではないか。正の裡中(りちゅう)、猛烈な情熱が舞い戻った。強い心が甦った。ヴェルレーヌは、歌ったではないか。吹きまくれ、逆風(さかかぜ)よと。山内正は、作曲の道に邁進した。


《民族音楽宣言》
昭和36年(1961年)1月、TBSは、創立10周年の記念事業として管弦楽曲の懸賞募集することを発表した。以下、その発表文を引く。戦後16年目、独立を回復してから10年近くが過ぎた。民族意識の強烈な高揚がある。
「現在国内で西洋音楽の懸賞募集は、毎日新聞の音楽コンクールと文部省芸術祭の二つがあるだけだ。ややもすれば応募作品には、西欧一辺倒や植民地的な傾向が見られなくもない。真の日本的個性や情緒が希薄化し、見失われがちになるこの傾向の根本的な原因は、これまで百年の日本の洋楽が揺籃期と生長期にあり、輸入された西洋音楽の影響から抜け出すことができなかったからといえよう。
 わが国の音楽が終戦を境として、ようやく独自な境地を開拓しはじめる気運が生まれたことが強く感じられる。音楽の本質ともいうべき民族の個性発揚に焦点を置き、芸術性の追求とともに民衆の支持を勝ち得られるような民族音楽の創造に力をつくすのがわれわれの義務であろう。」
懸賞募集の前文は、こう高らかに宣言した。以下、こう続く。
「東京放送(TBS)は創立十周年を機会にして、この目的を達成するために毎年「交響絵巻日本」の総合タイトルのもとに、日本人の手になった世界に誇れる音楽作品を懸賞募集することにした。
課題:「日本を作品とする管弦楽曲」
条件:編成は、三管以内。形式は自由。演奏時間、25分前後。
審査員:池内友次郎、伊福部昭、信時潔、山根銀二、松平頼則、清瀬保二、下総皖一、諸井三郎(順不同)
山内正は、この広告を見た。作曲家を目指してから数年。いまだに何の実績もなかった。しかし、ついにやってきた。ひとつの大きなチャンスが。全霊を賭けて挑むのだ。皇国の興廃ならぬ、己の興廃此処にあり。奮励努力すべし。山内正は、固く心に誓った。


《時の鐘鳴れり》
時は、昭和36年。時代の歯車が大きく動いた。日本では、前年までに政治の季節が終わった。安保闘争は、燃え果て経済の時間が始まっていた。所得倍増!いいではないか。人々は、額に汗した。安全保障をひとまず擱いて、経済優先で行こう。突っ走る時代だ。
世界は、米ソの冷戦がさらに熱く再燃していた。ベルリンには、壁。キューバには、社会主義国家が根を下ろし、アメリカへの匕首となる。ガガーリンが地球を見下ろした。戦いは、宇宙に広がった。ソ連は、核実験を再開し、世界は、終末の悪夢にうなされるようになった。
日本の楽壇も高度成長に入った。桜とともに二つの音楽ホールが開館した。上野の東京文化会館と新宿の厚生年金会館である。NHK交響楽団は、日比谷から東京文化会館に定期を移した。もう一方の雄、東京交響楽団は、厚生年金会館で定期をはじめた。
同じ4月、小澤征爾が鳴り物入りで帰国した。ニューヨークフィルの副指揮者という凱旋帰国である。大阪の祝祭音楽祭では、東ドイツのゲヴァントハウス管弦楽団がやってきた。チェコからは、スメターチェクがやってきた。東西陣営は、ソフトパワーにおいても戦っていた。その間隙に同じく4月、平和主義者のパブロ・カザルスが来日を果たした。愛弟子平井丈一朗の帰国凱旋を祝う来日だった。日比谷公会堂には、皇太子の来臨を得るなど各界の名士が顔を揃えた。その深い精神性に裏付けられた音楽と人間性は、永遠の感銘を残した。
そんな昭和36年、11月1日。新宿、厚生年金会館。夜6時。
指揮台には、「旭日の初演将軍」と謂われた上田仁が立った。
TBSの鹿倉吉次社長が律儀に挨拶した。東京交響楽団の演奏で東京放送管弦楽賞の最終審査が行われた。37曲の応募の内、最終審査に残ったのは、4点。
山内正は、「陽旋法に拠る交響曲」を応募していた。
舞台の譜面台には、その曲があった。この中から、特賞1点と入賞2点が選ばれる。
タクトが振られた。低音弦楽器が哀しげな主題を提示する。山内正の辛い時代が響いている。そこに木管楽器が会話をはじめる。困難を乗り越えよ、逃げないで、君よ。やさしく穏やかな主題が天使のように語る。そして、逞しく太鼓がなり、木管が強く吹き上がり、俗楽の賑やかさを伴って強い主題となる。哀愁味ある調べに気韻生動するリズム。繰り返される律動。力。実は、クライスラーのベートーヴェン、ヴァイオリン協奏曲などは、実に力強かった。山内正の少年期の夢の音楽が醸されている。エネルギー。直近の師匠、伊福部昭の土俗が執拗に逞しく繰り返される。審査員席には、伊福部の顔があった。二階席中央で瞑目している山内正の周りに友人たちが集まっていた。
結尾の激しさはどうだ。溜め込んだパトスを一気に放出させる。全奏による強奏。力の限り高まる。そして、ひとたび、治まりかけたときに、復讐のような金管が突出する。山内正のただならぬ痛恨、無念、憤怒、情念などが激しく連鎖し、爆発した。
誰もが呆気にとられた。拍手をひとたび忘れた。懸賞募集にあった「世界に誇れる音楽」が生まれた。真新しい厚生年金会館の客席で、誰もがそう感じた。作曲家山内正が此処に確かに誕生した。

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