報道の魂
ホウタマ日記
2012年10月29日 番組後記 (金平茂紀) 
2011年の<3・11>。その日から3日目にして僕はようやく宮城県の南三陸町に入った。仙台から随所で寸断された陸路を車で現地に向かうにつれて、超現実的な光景が目の前に広がった。

西城たけ子さん(1930年生まれ)は、津波に襲われ倒壊した自宅の前で、茫然と立ち尽くしていた。自宅の玄関には大きな材木の資材が流れ込んでいた。「ホトケさんを置いて避難所には行けない」。大津波で夫の格治さん(当時82歳)を亡くし、その遺体が自宅の二階に安置されているとのことだった。水や食料はどうしているのか。僕は避難所に行くことを勧めたが、たけ子さんはそこを離れたくないと言い張った。自宅は海から3.5キロ以上離れた山間部にさしかかる場所に建っていた。まさか大津波がそこまで来るとは思っていなかったのだろう。

数日後、また西城さん宅を訪ねると、たけ子さんは亡夫の背広やYシャツを泥の中から引っ張り出して、沢の水で何と洗濯をしていたのだった。

それから2カ月後。再び西城さん宅を訪ねると、たけ子さんの姿は消えていた。近所の人に消息を尋ね歩いたら、たけ子さんは肺炎を患い、救急車で緊急入院して九死に一生を得たとのこと。いまは鳴子温泉町の臨時避難所にいるはずだと言う。仮設の町役場で居場所をさがしあて、その足で鳴子温泉に向かった。たけ子さんはとても憔悴していた。

翌年の早春、たけ子さんの消息を調べたところ、小森仮設住宅というところに長男の彰さんと共に入居していることがわかった。「鎌を買ってくれって言うんですよ。畑に出たらみるみる回復してきましてね」。彰さんは電話口でそう話してくれた。

<3・11>から1年目の2012年3月と、さらに半年後の9月に現地を訪ねた。同行したのは今井健志。旧知の編集マンだが、彼は自らも農業に強い関心があり、『報道の魂』で自作を放送したこともある。一緒に取材をしようと持ちかけたところ、すぐに話がまとまった。彼がデジカメを回し、僕も自分のデジカメで撮った。画像はその意味で「一人称」の映像という側面が強い。今回の作品はノー・ナレーションで行きたいと思っていた。さらに字幕スーパーは必要最小限にとどめ、「一人称」にこだわった。昨今のつくりものが「権力的」なナレーションと文字過剰のスーパーで溢れかえっていることへのささやかなアンチテーゼのつもりだ。こんなことを言っても通じないくらい今の映像作品は荒れている。

エピソードをひとつ。たけ子さんの息子さんの彰さんが、僕らの仲間MBS毎日放送の製作したドキュメンタリー『生き抜く』(のちに劇場映画化された)のなかに登場しているのをみて僕は驚いた。彰さんが南三陸町役場の建設課長の仕事をしていて、仮設住宅建設の責任者だったという事実関係を全く知らなかった。彰さんは<3・11>以降の数か月間、ほとんど仮設の町役場の床(ゆか)で寝泊まりして復興の仕事に文字通り献身していた。『生き抜く』のなかでは仮設住宅の抽選や振り分けで随分苦労しているようすが映し出されていた。彰さんは自分の事情をまず口にする人ではない。そういう人たちが南三陸にはたくさんいたことを知って、僕らは取材しているさなかでも、逆にこちらが励まされるような思いをしたことを最後に記しておかなければならない。

金平茂紀
TBSトップページサイトマップ Copyright(C) 1995-2024, Tokyo Broadcasting System Television, Inc. All Rights Reserved.