報道の魂
ホウタマ日記
2012年09月05日 「バッヂとペンと」番組後記 (秋山浩之)
この番組のきっかけは弁護士の田中早苗さんからの電話でした。田中弁護士は日隅一雄弁護士をよく知る立場から「日隅さんの最後の日々を記録として残しておきたい」と強く感じていたようです。日隅さんには黙ったまま何人かのテレビ関係者に相談したのち、私のところに「日隅さんを撮影してほしい」と電話で申し入れてきました。「日隅さんの余命、あと僅かなんです…」と。2011年10月のことです。

突然の申し入れに私は戸惑いながら「ちょっと考えさせてください」と答えました。余命わずかな日隅さんを私が取材する意味は何なのか?自分なりに納得した上でなければ、軽はずみに取材を請け負うことなど出来ないと思ったからです。

日隅さんは日頃からマスコミに厳しい意見の持ち主として知られていましたが、3・11福島原発事故後は、更にその厳しさを先鋭化させていました。東京電力の記者会見に出席しつづけたのも「君たちだけに任せておけない」という大手メデイアに対する痛烈な批判の意味もあったはずです。そんな日隅さんを、大手メデイアに属する自分が取材する資格があるのだろうか?私は思いました。日頃の自分たちの仕事ぶりを棚に上げて、日隅さんとまともに向き合うことが出来ないように思えたのです。TBS記者という肩書きのまま日隅さんを撮影することが、どうもしっくりと来ませんでした。

そこで私は、TBS記者としてではなく個人として日隅さんに会いにいくことから取材を始めてみました。カメラマンや他のスタッフは連れて行かず、自分が所有するカメラを持って自分の車を運転して、ひとりで日隅さんのところに通うことにしたのです。個人対個人で日隅さんと向き合うことで「マスコミかマスゴミか」という窮屈な関係から、多少なりとも自由になりたいと思ったのです。

「番組になるかどうかわかりませんが、私が個人として撮影します…」そう説明しながらカメラを向けると、日隅さんはいやな顔ひとつせずに受け入れてくれました。こうして撮影が始まりました。田中早苗弁護士にそのことを報告すると、とりあえずほっとした様子でした。

プライベートな撮影は半年間余に及びました。オフィス、自宅、東電会見、講演会場、病院の行き帰り…。撮影済テープは次第に増えてゆきました。私は記者でありカメラマンではないので、撮影技術は素人レベルでした。加えて音声や照明のスタッフもいないため、収録された映像も音声も、暗すぎたりノイズかあったりと散々なレベルでした。

もうひとつ問題がありました。日隅さんは病人とは思えないほど精力的に日々様々な活動をこなしていたのですが、私が取材できたのはその一部に過ぎなかったことです。私は可能な限り日隅さんの姿を撮影したいと思っていましたが、サラリーマン記者として仕事のノルマがありました。このためどうしても自由の利かない日が多く、撮影チャンスを何度も逃してしまいました。故郷への里帰り、福島での講演など、本当は日隅さんに同行して取材をしたかったのですが適いませんでした。こうして、撮影の素人である私が撮ったVTRが手元にたまってゆきました。この素材は、日隅一雄の「全体像に迫る」とはとても呼べませんが「私が直接見聞きした」日隅一雄の記録でした。

2012年5月。日隅さんは「告知から1年」を生き抜きました。このタイミングで私はこれまでの記録を番組化することにしました。その際に決意したのは、あくまで自分が知り得た日隅さんだけを描こうということでした。日隅さんは幅広い人脈を持ち、多面的に活躍していました。「こんな日隅さん」「あんな日隅さん」というふうに様々な側面があり、そのスケールは私にはとても描き切れるものではありません。番組では、取材者である私が見た日隅さんを描くことで、数ある日隅一雄像の中のひとつを視聴者に提供しようと思いました。少なくとも私は、見てもいない日隅さんを見てきたかのように描くことはやめようと思いました。

「放送が決まりました。6月17日の深夜の『報道の魂』という枠です」と報告すると日隅さんは「生きて番組を見られるのが嬉しい」と喜んでくれました。「正味24分の短い番組で、中間報告のようなものになります」と私は伝えました。これからも引き続き日隅さんを取材してゆくつもりだったからです。

編集作業のため6月11日から編集室にこもりました。作業に集中するため普段チェックするメールなども見ずにいました。すると6月12日の夜になって携帯電話が鳴りました。日隅さんと親しい下村健一さんからでした。「日隅さんが危篤状態でいま病院にいるから、急いで来て下さい」。突然の一報に頭の中が混乱しました。日隅さんが生きていることを前提に、ここまで番組制作を進めてきたからです。気持ちの整理がつかないまま、私はカメラを持って夜の病院へと向かいました。

到着すると看護師さんから「10分ほど前に、亡くなられました」といわれ部屋へ案内されました。病室には、日隅さんと親しかった人たちが日隅さんを囲んでいました。私は日隅さんの脇に立ち、声にならない声で語り掛けました。「臨終に間に合わずスミマセン。最後まで、撮影チャンス、逃がしてばかりで…」

実はこの日の昼頃から、木野龍逸さんや田中早苗弁護士がメールで私宛に「日隅さんが危ない」と何度も伝えてくれていたのです。編集室にこもっていたため全くチェックしていませんでした。そのため駆けつけるのが大幅に遅れ、最後のお別れも言えないまま、日隅さんは旅立ってしまったのです。痛恨のチェックミスでした。

翌日、私は再び編集室にこもり番組編集を続けました。日隅さんが生きていることを前提に制作してきた番組を手直しして、彼が亡くなったことをVTRの最後に挿入しました。編集作業が終わって感じたのは「撮影も編集も、すべて中途半端になってしまった…」という自責の念でした。

日隅さんは、人生の残された貴重な時間の一部を割いて、私の撮影に付き合ってくれました。そんな日隅さんの思いに充分に応える番組ができたとは、私にはとても思えませんでした。ひとりの人間の生と死を描くことの重さと困難さを痛感させられました。

2012年6月17日の深夜、番組は予定通り放送されました。けれどもこの番組は「中間報告のようなもの」に過ぎないと私は思っています。日隅さんの予期せぬ死に直面して、制作者である私自身の精神が「宙に浮いた状態」のまま放送にまで至ったからです。これまで撮影した日隅さんの映像を、しばらく時間を置いて見直しながら、私はいずれもうひとつ別の『バッヂとペンと』を作ろうと思っています。

(TBS報道局 秋山浩之)
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