報道の魂
ホウタマ日記
2005年11月28日 メッセージ (斉藤道雄:「吃音者」製作者)
「ぼくは配慮の暴力というのがあると思います」

小冊子のこのひとことに、僕は引きつけられた。

配慮の暴力というのは、たとえば「子どもの欠点や弱さというものを指摘したらかわいそうだ」という親の思いこみからからはじまっている。あるいは、「治ることを期待してどもりについて話題にしない」という「大人の意識」のことだ。そうした意識が、子どもが本来もっているはずの力を、押さえつけているのではないか。

この問題のとらえ方には、なじみがある。そう思いながら、先を読み進んだ。

話は、吃音者の生き方をめぐるものだった。

「治るとはどういうことか。ぼくもはっきりわかりません。…だから治るという言葉はあえて使わないで、治らないけれども自分らしく生きることはできるんだよというメッセージを投げかけたい」

治らないけれども自分らしく生きる、これもまた、なじみのメッセージではないか。

だれだろうと名前を見ると、伊藤伸二とあった。

伊藤さんは、大阪の応典院というお寺が出している機関紙「サリュ」の2004年秋号に載ったインタビュー記事(「弱さ」を社会にひらく。セルフヘルプとわたし。)で、吃音について、吃音をめぐる「配慮の暴力」について、そして吃音を治すということ、治るということの意味について語っていた。それを読み終えて僕は思った。ああ、いつかこの人に会ってみたいものだと。会って、話を聞きたい。そしてたしかめてみたい。伊藤さんがいっているのは、僕がかつて受け取ったあのメッセージのことですよねと。「サリュ」の一文は、夜空に打ち上げられた一瞬の花火のようなものだったけれど、僕はたしかにそれを見たし、そこに伊藤さんの存在を感じることができたのですよと。

いってみれば、そのことを伝えるために、僕は今回の取材に取りかかったのかもしれない。配慮の暴力ということばに出会ってからちょうど1年後、僕は東寝屋川駅にちかいマンションの自宅に伊藤さんを訪ねていた。そこで話を聞き、資料をもらい、この秋からはじまる新番組の企画で、伊藤さんの取材をしたいとお願いしたのだった。

それがたまたま、年に一度の吃音親子サマーキャンプの時期と重なっていたのである。キャンプには伊藤さんたちの仲間と吃音の子どもたち、それにその親が、全部で140人も集まるという。好機を生かすべく、僕はさっそくカメラマンとともに、キャンプ地である滋賀県の荒神山まで出かけることにしたのだった。2泊3日の短い期間ではあったが、おかげでじつに密度の濃い取材ができたと思う。突然のテレビの闖入で参加者にはずいぶん迷惑をかけたことだろうが、それにもかかわらず快く取材に応じていただいたみなさんには、ここであらためてお礼を申し上げたい。

もちろん、吃音などという問題にはかかわったことがなく、キャンプにもはじめていくわけだから、取材できることはかぎられていた。しかしそこで子どもたちが真剣に話しあい、劇の練習をするところを見ながら、そしてまたインタビューをくり返しながら、サマーキャンプがどのような場であり、その場をつくりだしているのがどのような人びとなのか、そしてそこでなにが語られ、なにが起きているのかを、多少なりともつかみとることができたと思う。

ひとことでいうなら、それは長い物語をもつ人びとの集まりだった。

吃音がもたらす苦労と悩み、そして人間関係のむずかしさや社会との緊張は、他人がなかなかうかがい知ることのできない生きづらさを、吃音者にもたらしている。その生きづらさは、時間を経てこころの奥底に滓のように沈殿し、重さをもち、それぞれの物語をつくる下地となる。キャンプの参加者はみな、そうした滓や重さや経験をことばにして、あるいは仲間の語ることばに共鳴する形で、自らの物語を紡ぎだしていくかのようであった。

たとえばスタッフとして参加していた長尾政毅さんは、小学校2年生のころは吃音がひどくて、話がほとんど会話にならなかったという。

「友だちと話してるときに、やっぱり通じなかった記憶、ものすごいある。これ話したい、だけど一部分も話せずに去っていく、って経験がいっぱいあった」

吃りをまねされ、からかわれ、「負けじとしながら、だいぶこたえて」いた。ふつうに話せないのが「ほんとにいやでいやで」、でもそれを認めたくないから「逆に強くなろうと突っ張って」いた。それだけではない。吃音を「隠そうっていうことを無意識に」しつづけていたから、表面的にはものすごく明るいいい子を演じていなければならない。そういう無理を重ねながら小中高と進んではみたものの、高校2年のある日、ついに合唱部の顧問の先生にいわれてしまう。「君は、ものすごい自分を出さない、こころを閉ざす子やな」と。

それはそうかもしれない。しかし、じゃあどうすればいいのか、長尾さんは途方にくれたことだろう。吃音がもたらす厚い壁は、自分で作り出したものかもしれないが、それは作らざるをえなかった防壁であり、そのなかでかろうじて自分を維持できるしくみだった。なぜそうしなければならないのか、どうすればそこから脱け出せるのか、それは周囲ではなく、だれよりも本人が自分に向けなければならない問いかけだったろう。その問いかけに、当時の長尾さんは答えることができなかった。いまそれを語れるようになったということは、果てしない堂々めぐりのあげく、いつしか壁を抜け出していたということだったのではないだろうか。

ここまでこられたのは、おなじ仲間との出会いが大きかった。そこで長尾さんは目を開かれ、新しい世界に入っていくことができたからだ。いまでは自分が吃音に対してどういう心理状態にあるかを把握し、整理できるようになったというから、克服したとはいえないまでも、吃音との関係を以前にくらべてずいぶんちがったものにしているといえるだろう。しかしそれでもまだ、こころの底に鍵をかけているところがあるんですよと、テレビカメラの前で率直に語ってくれた。

その長い話は、まだ先へとつづくのである。

最近、長尾さんはアルバイトで水泳のインストラクターをはじめるようになった。子どもたちに泳ぎ方を教えながら、「名前よぶとき、だいぶ詰まる」ことがあって、危ないときもあったが、「ごまかしまくって」なんとかやってきた。それが最近、仕事が終わったところで先輩にいわれてしまったという。お前、がんばってるな、だけど「これからは、吃らずにやろうな」と。それを「さくっと」告げられた経験を、苦笑いしながら話す胸のうちには、かなわんなあという思いと、どうにかなるさという居直りとが交錯していたことだろう。

吃音をめぐる長尾さんの物語は、いまなおつづいているのである。いや、吃音者はみな、終わることのない物語を刻みつづけている。それは一人ひとり異なっていて、みなおどろくほどよく似た部分をもっている。

サマーキャンプでは、そうした物語が無数のさざめきのように、ときに深い沈黙をはさみながら語りあわれていた。そうしたことばと沈黙のはざまで、参加者はみなそれぞれに考えていたことだろう。吃音とはなにか、吃音を生きるとはどういうことか、なぜそれを生きなければいけないのか、それはなぜ自分の課題なのかと。しかしそうした困難な課題に判で押したような答がみつかるはずもない。いやどれほど考えても、そもそも答はないのかもしれない。答がないところでなおかつ考えなければならないとき、人はほんとうに考えているのかもしれない。

取材者としての僕は、そのまわりをうろうろしているだけだった。ただはっきり感じることができたのは、そこで語り、語られる人びとの集まりのなかに、たしかな場がつくられ、その場をとおしてさまざまなつながりが生みだされているということだった。それはおそらく、絆とよぶことのできるつながりなのだろう。その絆が、吃音をめぐる苦労と悩みから生みだされるものであるなら、そしてまた生きづらさをともにするところから生み出されるものであるなら、僕はそうした絆をすでにそれまでにも目にしていたと思う。それも一度ならず。すでに見たことがある、その場にいたことがあるという、なじみ深さをともなった記憶は、キャンプにいるあいだ、いや最初に伊藤さんのことばに出会ったときから、僕にまとわりついていたものだと思う。

それはもう20年も前、先天性四肢障害児との出会いにさかのぼる記憶でもある。その後のろう者とよばれる人びととの出会いと、そしてまた精神障害をもつ人びととの出会いにくり返し呼び覚まされた記憶なのだ。その核心にあるのは、自分ではどうすることもできない生きづらさを抱え、苦労し、悩みながらその経験を仲間と分かちあってきた人びとの姿なのである。彼らがみなそれぞれにいうのは、「そのままでいい」ということであり、「治さなくていい」ということであり、「どう治すかではない、どう生きるかなのだ」ということなのである。

たとえばそれは、北海道浦河町の「べてるの家」とよばれる精神障害者グループの生き方であった。

彼らとかかわってきた精神科ソーシャルワーカーの向谷地生良さんは、精神病の当事者に、はじめから「そのままでいい」といいつづけてきた。精神病はかんたんに治る病気ではないし、かんたんに治らないものを治せといわれつづけることは、その人の人生をひどく貧しいものにしてしまう。そうではない、病気でもいい、そのままで生きてみようと向谷地さんは提案したのである。そのことばで、どれほど多くの当事者が救われたことだろうか。彼らの多くは、病気は治らなくても生きることの意味を探し求めるようになり、妄想や幻覚は消えないのにむしろそれを楽しもうとさえしている。

おまけにそこには、川村敏明という奇妙な精神科医がいて、「治さない医者」を標榜し胸を張っている。医者が治そう治そうと必死になったら、患者は服薬と闘病生活を管理されるだけの存在になってしまう。それがほんとうに生きるということだろうか。川村先生はそういいながら、患者を診察室から仲間の輪のなかにもどすのである。もどされた患者は病気の治し方ではなく生き方を考え、お互いに「勝手に治すな、その病気」などと唱和している。

そこには、「この生きづらさ」をどうすればいいのかと、深く考える人びとがいる。その生きづらさは、それぞれが自ら引き受けるしかないものであり、だれもその生きづらさを代わって生きることはできないという、諦念というよりは覚悟ともよぶべき思いが共有されている。ゆえに浦河では苦労をなくすのではなく、いい苦労をすることが求められ、悩みをなくすのではなく、悩みを深めることが奨励される。みんながぶつかりあい、困難な人間関係を生きながら、しっかり苦労しよう、悩んでみようと声をかけあいながら、すべての場面で笑いとユーモアの精神を忘れない。彼らの生き方そのものが、ひとつのメッセージとなっている。

そういう人びとを取材していると、さまざまなことが見えてくる。

そのひとつが、当事者の力というものだ。

「べてるの家」は、いまや全国ブランドといわれるほど有名になったが、見学者はそれがソーシャルワーカーや精神科医のつくりだしたものと勘ちがいしてしまうことがある。しかし浦河で真に状況を切りひらき、暮らしを築いてきたのは精神障害の当事者たちであった。生きづらさを抱え、苦労と悩みを重ねてきた彼らが仲間をつくり、場をつくり、自らの経験をことばとして物語にしてきたのである。

まったくおなじことが、吃音親子サマーキャンプについてもいえるだろう。

伊藤さんをはじめとするスタッフは、もう15年あまりこのキャンプにかかわっているという。そこでどれほどたくさんの子どもや親が救われたことだろう。けれどもしこのキャンプが、吃音の子どもたちを守り、助けることだけを考えていたのであれば、これほど豊かな場をつくりだすことはできなかったはずだ。その豊かさは、使命感に燃えるリーダーがつくりだしたものではなかったのだ。

キャンプになんどか参加した中学生の宮崎聡美さんや松下詩織さんは、ともに吃音でもいい、治さなくてもいい、あるいは治したくないとまでいっている。中学生でそこまでいえるのはすごいことだし、そういえるまでにはいろいろな苦労や悩みがあったことだろう。そのいい方は、これからも揺れたり変わったりするかもしれない。しかしふたりがこのキャンプで変わったということは、まぎれもない事実なのだ。灰谷健次郎がいうように、変わるということは学んだことの証でもある。子どもたちはキャンプにきて、確実に生きることを学んでいる。そして彼らが、だれに教えられるのでもなく自ら学び、変わっていくということ、そのことが伊藤さんを支え、そしてまたキャンプにきたみんなを支え、動かす力になっている。

あなたはひとりではない。あなたはそのままでいい。そしてあなたには力があるという、そのことばは、伊藤さんが子どもたちに送るメッセージであるとともに、子どもたちが伊藤さんに送るメッセージでもあるのだと思う。

初出「スタタリング・ナウ」12月号に寄稿した文章より

                               ── 以

斉藤道雄(解説専門記者室長)
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